月下の孤獣 5
      


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革靴の堅いかかとや爪先で蹴られたことは何度もある。
うずくまっても容赦なく繰り返し、何かの憂さ晴らしみたいにずっとずっと。

 “人を相手にああいうこと出来るんだ、
  というか、あの人たちにしてみれば
  入所している子供たちなぞ同じ人間でさえなかったんだろうなぁ。”

手で触れるのさえ忌まわしいということか、
そう言えば、あの施設に居た頃は、
誰かが直接接するときは いつも掴まれるか突き飛ばされるか、
あとは躾と言いつつ殴られるか蹴られるかだったっけ。
最初は 大人は言葉が通じぬ子にはそうするものかと思ってた。
他の子たちも同じように突き飛ばされていたし、
たまに、何かしらこそこそと耳打ちして笑いかけられている子もいたから、
いい子になれば叩かれないのかと気が付いたけど、
何故だかボクだけは、
どれほど言葉が判るようになっても、お手伝いを頑張っても扱いは変わらず、
何でと問えば生意気だと倍は殴られたし、聞き分けがないと言われて箒や棒でも殴られた。
今なら何となく判るけど、幼いうちは何が何やら、
こうすればいいのかな、ああダメだったの繰り返しで。
終いには面倒になって来て、ボクなんて要らない子なのだろうと思うようにもなった。
ただ、自分の身は自分で守るしかないのだと判っても来て、
叩かれてもいいからとこそこそ夜中に厨房で残り物を漁ったりもしたし、
日によって言うことが変わる いい加減な奴の思い通りになるもんかと、腹の底ではムキになってもいた。
そんなころ、唐突にやって来たのが親方の森さんで、
虎になる子がいるそうだねって、
ボクでさえ知らなかったことを言い立てて、その子を連れて来てくれないかいと言ったとか。
その施設はヨコハマにあったわけじゃあないけれど、
5,6人を周囲に連れていて、乗ってきた車にもまだ人がいるという大仰な頭数と、
何より 夜更けの唐突な訪問と強かそうなその雰囲気で、
多くを語らなくとも反社会組織の人たちらしいというのは伝わったようで。
満月の晩は地下牢に入れられていたボクが無理から引っ立てられて来るのを見やると、
森さんはカーテンや暗幕を厳重に引かれていたのを開けさせた。
そこまで知っていたのかというよな、それは驚いたような顔になった院長の目の前で、
ボクは初めてそれと自覚して月を見て、そのまま大きな虎へと変わった。

 『これはまた、綺麗な虎だねぇ。』

森さんは嬉しそうに目を細めて笑ってたなぁ。
今にして思えば…穏やかそうに見せていてその実、途轍もない圧を持つ存在感に圧倒されたか、
それまでそうだったらしい我を忘れることもなく、とはいえ制御も出来ないまま、
分厚いガラスの壁越しになったような周囲を落ち着きなく見まわしておれば、

 『太宰くんを連れて来れなかったのでね。』

そんな風に言ってから、可愛らしい女の子を前へと踏み出させ、
にっこり笑った彼女が首条をよしよしと撫でてくれた途端、
そのまま、意識が遠くなって。

 その日からボクは、ポートマフィアの中島敦となったのだった。




 「………。」

βという男の異能は、声に関するものであるらしく。
どんな周波の声でも操れるところを彼なりに工夫し鍛錬もし、
誰かの声真似だけにとどまらず、
人間の神経や五感を叩きのめすような代物まで扱えるようになっていたらしく。

 『耳が良いのがどうかしたか。それが弱点にだってなると判らんのだな。』

敦が人より五感が敏感だと知っていたのだろう、何かしら攻撃的な声の異能を発揮したらしく、

 「あ…、が…っ。」

頭の芯がぎゅうッと絞られたみたいで
そのまま破裂しちゃうんじゃないかってほど痛んで何も出来なくなって。
その場へ落ちるようにうずくまり、両手で自分の頭を抱え込む。

 ああ、虎になるときのあの感覚に似てる。
 痛いのも怖いのも嫌だと
 気持ちだけが何歩も遠くに行っちゃうあの感覚…。

幹部たちと睦まじく語らっているこの青年へ、日頃から憤懣を溜めていたのだろう。
腐れた思いを込めて、うずくまる彼の背や肩口を容赦なく踏みにじり蹴りつける。
まるで自身の不遇はこの子のせいだと、
そんな道理のおかしいことへの正当な鬱憤晴らしででもあるかのように、
興奮しつつ踏みつけ続け、薄い肩ががくりと不自然な落ち方をしても辞めずにおれば、

 「あ…?」

そんな足が甲板に縫い付けられたように引き上げられなくなる。
見やれば足首辺りを掴む手があって、
忌々しいと舌打ちをし、こんなくらいの抵抗なぞ蹴り飛ばしてやらんと脚を振ったが、

  びくとも動かない。

ただでさえ華奢な子だし、さんざん踏みつけられて恐らくは肩、鎖骨辺りを折った手ごたえもあったから。
その激痛に真面な感覚も発せはしないはずで、こうまでの力が出せる余裕なぞないだろうにと、

 「んだよごら。懲りない奴だな。」

また麻痺させてやろうかと、再び息を吸い込みかけた β氏だったが、
そんな自身の脚がいきなり鈍い音を立てたのへ“あ?”と怪訝そうに眉を寄せる。
じわじわせり上がってくる痛みに気付いたころにはもう遅く、
途轍もない力で足を掴まれたまま身が浮き上がり、
そこからブランと宙づりにされ、世界が逆さまになったのを見たのが尋常な感覚を保てていたその最後。
ガツンと背中から板張りの堅い甲板へ落とされたのが地獄への幕開けで。

 「ボクのこと、平和主義の小春日和アタマとか思ってないですか?」

虎の異能も知っていたならもうちょっと警戒しなきゃあと、
その猛獣のものなのだろう、
毒々しいまでに魔物的な長くて剛そうな爪が指より長く伸びた禍々しい手で
首回りを抑え込まれての甲板へ釘づけにされたβとやらが、ひぃいと情けない声を上げた。

「しょうもない小細工するから手加減できなかったじゃないですか。」

ちょっと振り払うだけのつもりが、もしかせずともへし折ってしまったようだしと、
害した相手へ口許だけを歪めて嗤う虎の青年で。
形勢逆転なんて甘い物じゃあない、
いつその爪で切り刻まれてしまうかも知れない立場にあるとようよう判ったか、
大の男がガタガタ震えはじめておいで。
それを端とした顔で見下ろして、

「爪も牙も、制御できる身ではありますがね、それでも基本“マフィア”ですよ?
 それも、親方直属の子飼い。それが何を意味するか分かっていますか?」

すんと鼻で息をついてから、

「日頃、親方を舐めてるような口利きしているのは、
 何も正義の側に居たいとかどうとかいうよな、青臭い反抗期なんかじゃないんです。」

そんな単純明快なもんじゃあない。色々と考えてるんですよボクだって。
ボクより偏った世界しか知らないくせに、判ったような口きくんじゃありません。

 そうさ、何にも知らない身のくせに…

ボクを育ててくれた人は、それは頭の切れる生粋のマフィアみたいな人だった。
随分と長いこと、子供なんで1年かそこらですけど、そういう人だって判らなかった知らなかったなぁ。
そうは見えない、そりゃあ小粋でイケメンで、取っつきやすい風を装ってらして。
いつも颯爽としているところが頼もしくって。
でも、何かどこかいつも不満だったみたいで、
正体がばれちゃってからはボクにも内緒だよってしつつもいろいろと話してくれて。
あのですね、テレパシーで他人の思うことが判ったらさぞ便利だろうって思いません?
でもそれって制御できなきゃ地獄らしいですよ、
周り中の人の思うこと全部なだれ込んでくるし、そうで無くてもね、
信じてた人が実は心の中では裏切ってることとかそれこそ偽りない真実として判ってしまう。
そこまでのものじゃあなくっても
先が全部判っちゃうのが詰まらないって、
頭のいい人にはそういう人なりの悩みがあったみたいで。
何でも判っちゃうのが癪だったし、マフィアだからどうとでも出来ちゃうのがつまんなくって、それで。
突拍子もないことが起きやすくって、しかも何かと制限がつくところで暮らすことにしたって。
仲良しな人がね、やっぱりいろいろ判っちゃう人だったけど、
その人は不器用な人だったんで、一緒に居ればプラスマイナスゼロにならないかって。
マフィアだから何でもあり、邪魔な奴は抹消も出来るってところに制限掛かったらどうだ?って、
そんな風に言われて、それは面白いかもって……まあその人の話はどうでもいっか。

「…どうしましたか?
 色んな波長の声が出せるんですね。
 途中でますますと眩暈がしました、だからあなたが悪いんですよ?」

多少は手加減してあげようと思っていたのに、
頭がくらくらするような奇声を上げるから、
爪でちょっと引っ掻くつもりが随分ざっくりやっちゃったじゃないですか。
ああ、此処に与謝野さんが居れば助けてもらえましたね。

 「……。」

喉を切ったことで声が完全に途切れたらしく、
それでやっとのこと、混濁していた意識が戻った敦なようで。
スーツの襟元を赤々と自身の血で染めながら、
ヒューヒューと、壊れてしまって鳴らなくなった笛のように
息の音だけをこぼしている男をどこか呆としたまま見やっていたが、
膝をついて屈み込んでいた身を起こすと、
自分のクロップドパンツのポケットをまさぐる。
取り出したのはちょっとしたペンライトサイズのツールで、
それの機能を思い出してでもいるかのようにじっと見下ろしていたものが、
先端についている唯一のボタンへ親指を掛け、
そのまま押し込もうとしたその瞬間に、

 「…この愚者が。」

そんな声がして、
起爆用のスイッチだったツールが
何かに弾かれた弾み、敦の手から離れ、からからと甲板の上を転がってゆく。

 「…え?」

敦の手を弾いたのは、しゅるんと飛びかかってきた影であり、
わあと棒読みで驚いておれば、肩へと手が掛かってぐるりと振り向かされている。
そういや其処って怪我してたんだけどな、
ああでも痛くないから虎が治してくれたみたいだなぁと、やはり感慨薄く思っておれば、

 「何をぐずぐずしている。皆して貴様を待っておったのだぞ?」

え? なんのはなし?
あ、この人知ってる。さっき迎えが来てるからって見送った芥川くんだ。

 「凄いなぁ、船端を異能で一気登攀したの?
  随分と使いこなせるようになってたんだね。
  それに怪我も治ってる。まさか船上で解体されt…。」

 「やかましい。////////」






to be continued.(20.07.28.〜)


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 *まさかに原作様で脳をぶっ壊すほどの“音波銃”が出てこようとは思いませなんだ。
  Y子様はあのくらいの飛び道具でないと倒せないのね。(持ち出しても倒せんかったが)
  それはともかく
  いきなり読みにくい章ですいません。
  敦くんの内面がちょろりとはみ出しました。